戸沢ひろゆき 日々の日記


 元地方議員 戸沢ひろゆきの日記
 



 8月 27日 火曜日


 

毎年 開催ている 原水協の写真展



  市役所のコミニティ―ホールで開催しているあきる野原水協の作品展。今年は、学生、中高生が手で描いた写真ででした。マスコミでも大きく取り上げられています。

 広島の原爆記念館がリニューアルして、いかに風化させないかが課題となりました。被災者と語り部が高齢化が進んでいる中で、原爆の恐ろしさと被災状況を描いてきたものを鑑賞・話しを聞いて「描かれて」います。
 多くの市役所利用の方が鑑賞されていました。


 


 8月 26日 月曜日

三週 朝市へ 一時停止線を



  夫婦2人なのにスイカを求めて三週連続で「朝市」へ。孫が来たら一晩で無くなりますが夫婦で食べていると5日間ほど冷蔵庫に入れた冷えたスイカが食べれます。外出から帰ってくると二人とも冷蔵庫の前のテーブルに並びます。
 この日曜日も購入してきました。一つ1200円で先週と同じでした。

 帰り道に南聖園の交差点の所を再点検しました。我が家の方から秋川駅に向かう手前に「白線」を引いてもらえることが市の都市計画、都市整備部から報告がありました。松本ゆき子市議会議員にお願いしていた交差点の安全対策です。夏休み前に・・・と願っていました。お陰様で、この夏休み中に事故は起こっていません。ありがとうございます!。
 

 

 8月 25日 日曜日


 

神社の杉の木の実



  この種から飛ぶ花粉が人間の鼻に入り「花粉症」になるのだろうか?
 
 神社の境内に周辺と同じように大雨が降りました。境内に降った雨は流れないで低い窪地に種が溜まるんですね。この写真の様に種だらけになりました。へーと思ったのは大きい種と小さい種に種分けされていることです。

 ラジオ体操を前に2枚の写真を撮りました。
 

 8月 24日 土曜日

レンゲショウマを観てきました



  御岳山がこんなに近くにあるとはおもいませんでしたね。

 あまり暑い日が続くので、横道をそれたように御岳山のレンゲショウマを観に行ってきました。

 こんなにレンゲショウマが咲く群生地をみたことはありません。

 先日のしんぶん「赤旗」に御岳山のレンゲショウマが紹介されていたのです。現地で「赤旗」に掲載されていたと挨拶で参加者に発言したら、「私もそうなのよー」と返事。驚いたのはものすごい大きなカメラを担いでいた(ぶら下げていたとは言いにくい)ことでした。

 一度、冥土の土産に覗いて見たかったです。写真はいたずらでした。
 

 

 8月 23日 金曜日


 

商業者として恐い存在


「業務用スーパー」という看板。中に入って知ったことは「荷品」が多いことでした。

 次に 値段です。 私が商売として「お店」を出していたら、青ざめているに違いありません。

 業務用スーパーですから、体さなお店・「赤ちょうちん」なんか経営していたら・・・ここに「仕入れ」に来るようになるでしょうね。

 品物によるんでしょうね・・・生ものでない味付けの出汁などはここで用意して店を開けた方がね。

 なんか! 食生活が大きく変わるような気がしました。
 

 8月 22日 木曜日

夕食は老夫婦で 回転寿司


毎日暑い日が続いているます。日の出町の町議選も始まり忙しい活動する典子さんを疲れさせている。

 そこで、夕食は2人だけの家なので、回転寿司、サイゼリア、イオンモールのフードコートで毎週夕食は3カ所で済ませ「手抜きOK!」で植生カサしている。

 今日は「浜寿司」でした。芋焼酎一杯350円と皿寿司・二人で11皿。周りの席が子供ずれだととても家庭的です。

 私らの時代には、こうして子供ずれで夕食を食べられる環境はありませんでしたね。そのせいでしょうか???子ども連れの隣の席などに座ると、孫たちを思い出されるので・・・「家庭的」と言う環境になってしまいます。

 来週は料金が安く、ワインを持って帰れる・・・サイゼリアです。
 

 
 

 8月 21日 水曜日


 

田島道治・初代宮内庁長官が記した「拝謁記」



初代宮内庁長官を務めた故田島道治氏が、昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」が19日、公開された。全国各地で反米軍基地闘争が起きる中、昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。

 専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。

昭和天皇
 田島元長官の遺族から史料提供を受けたNHKが19日、遺族の意向を踏まえ一部を公開した。
 それによると、対日講和条約発効により琉球諸島が日本から切り離され米統治となった一方、日本が独立した翌年の53年11月24日の拝謁で昭和天皇は沖縄への具体的言及はないものの基地問題について発言した。
 昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。
 同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。
 51年1月24日には「(沖縄不返還のマッカーサー方針について)そうすると徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事でたとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国(にこく)ニなるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」とも述べていた。
 田島氏は48年、宮内庁の前身である宮内府長官に就任、49年から53年まで宮内庁長官を務めた。在任中、昭和天皇との会話の内容や様子を手帳やノート計18冊に書き留めていた。インターネットの掲載より 写真は天皇の神 天照大神の尊・神明社でラジオ体操する私。
 



 
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